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仙台高等裁判所 昭和58年(ネ)360号 判決

控訴人

宮本太郎

右訴訟代理人

寒河江晃

松浦光明

被控訴人

宮本花子

右訴訟代理人

安藤裕規

安藤ヨイ子

主文

原判決を取消す。

控訴人と被控訴人とを離婚する。

訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

事実

控訴人は主文同旨の判決を求め、被控訴人は控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の主張及び証拠の関係

〈省略〉

理由

一本件の事実関係に関する当裁判所の認定は、以下のとおり付加訂正するほかは原判決理由中のそれ(二枚目裏一二行目から六枚目裏一〇行目まで)と同じであるから、ここに右記載を引用する。

1  〈省略>

2  三枚目裏一一行目の「このときまで」から四枚目表一行目末尾までの記載を次のとおり改める。

「原告と被告とは、共に性格的に頑固な面があつて、互いに相手の希望や注文に素直に従うことが少なく、更に被告には気に入らない時には黙り込んでしまう性癖があり、原告はこれに手を焼いていた。また、原告の母と被告とは元来は義理の伯母と姪という間柄であつたのに、或いは逆にそのためもあつてか、姑に対する被告の嫁としての態度に些か欠けるところがあつた。原告の父はこのことに気を病み、飲酒のたびに原告の母に対し、姑の躾が足りないから嫁がよくならないのだ、との趣旨の小言をいうのを常とし、これがきつかけとなつて原告の両親間に夫婦喧嘩が生じ、原告の母が家出したことが何度か繰返されたりした。このような事情から、原・被告間に表立つたいさかいこそなかつたものの、両者が心底から打ちとけるということもなく、殊に原告は両親と妻である被告との板挟状態から逃れようとして右の如く満洲行を企てたり、上海に渡つたりしたのであつた。」

3  四枚目表八〜九行目の「丙橋タカエが」を、「丙橋タカエ(当時一七〜八歳)がその父と共に」と、同裏九〜一〇行目の「小作に」から始まる一節を、「これを免れるため小作に出していた農地の多くを取戻して自作地にしたりしたが」と各改める。

4  五枚目表一一行目の「横須賀市の」を削除し、同裏一二行目の「長男死亡」の次に「時」を加え、六枚目表八行目の「送金したが」を、「送金し、軍人恩給の受領と使用・処分は当初から被告に委ねていたが」と、同一〇行目の「訴外芳賀ひさおと共有している山林」を、「原告所有名義の田や山林、原野その他」と各改める。

二右認定事実に徴すれば、本件当事者の婚姻関係は遅くとも昭和二二年末までに破綻し、以後三六年余にわたり破綻状態が継続していて、現在ではもはや修復不能であるといわなければならない。右破綻に至るまでの経過をたどつてみると、控訴人は被控訴人と結婚当初から性格的に一致せず、必ずしも打ちとけた関係になかつた上、自分の母と被控訴人との姑嫁間の板挟状態から脱け出そうとの希望を抱いていたところに、支那事変により召集されて中国・上海市との地縁が生じ、除隊後間もなく同市で鋳造所を経営すべく単身同市に赴いた頃から両者の精神的結びつきは以前に増して弱くなり、被控訴人が後を追つて同市に行つた結果時折夫婦間の性的交渉はあつたものの事実上は別居状態となり、昭和一八年五月控訴人の父が死亡したのに伴い相前後して福島県の実家に帰つた後は、同年八月控訴人のみが上海市に戻り、以後右実家の家庭事情や戦争の激化による渡航の困難さが加わつて別れ離れの生活に推移し、昭和二〇年初め頃控訴人は丙橋タカエと情を通ずるに至り、再度の召集により一旦は同女と別れ、敗戦後復員帰国してから約一年間は控訴人と被控訴人とが福島県の実家で生活を共にしたものの、結局前記の如く昭和二二年の末頃控訴人は横須賀市内で事業を始めるために被控訴人のもとから離れ、丙橋タカエと同棲するに至つたという経過である。

このように、控訴人と被控訴人との間は、最初はいずれの責任とも分かち難い理由によつて溝が生じ、その後上海市での事実上の別居及び戦争の激化という要因が加わつての内地、外地での別離となり、この情況下で控訴人と丙橋タカエとの情交が始まり、右情交が機縁となつて約三年後の両者の同棲となつたのである。この同棲がなければ控訴人と被控訴人との間の婚姻関係は修復不能なほどの破綻には至らなかつたというべきであり、かくなるについて被控訴人に直接の責任原因は見当らないから、相対的な意味で控訴人のみの責任であるが、そうなるまでには両者間の溝が徐々に広がつて都合数年間の事実上の別居といういわば小破綻の状態になつていたのであり、この点についても被控訴人に格別の責任はないものの、前記の諸事情、殊に戦時下という状況をも勘案すれば、控訴人の行動に対して一方的な強い非難をあびせるのは酷であるとの見方も成立ちうるのであり、そうである以上、このような経緯の後に生じた情交と同棲についての控訴人の責任に関しては何がしかの酌量が加えられてしかるべきである。

右に説示したところにより幾分かの責任軽減がなされるにもせよ、控訴人が本件婚姻破綻の主たる責任を負つていることに変りはない。しかし飜つて考えると、控訴人がその行動に出たのは三九年ないし三六年余の昔であり、控訴人と被控訴人とがともかくも夫婦としての生活をした期間の二倍前後の年数が経過し、両者とも既に老境に達している。控訴人は自己の死後丙橋タカエが年金等受給の資格なしとされるのを案じ、同女を妻として入籍するために被控訴人との離婚を強く望んでいる。もとより、被控訴人の控訴人及び右タカエに対する恨みや憎しみは未だ消えておらず、むしろうつせきし激化している面も見られるが、いわば比喩的にいうならば、最も重い罪に関する公訴時効期間である一五年の優に二倍以上の年月が過ぎ去つた現在では、控訴人の有責性は、被控訴人の胸中には依然残つているものの、客観的には風化しつつあるということができる。

しかしながら、離婚により子の福祉が害されたり、相手方配偶者が経済的苦境に立つことが予想されるときは、その面から離婚の是非を検討してみる必要もある。これを本件についてみるに、両名間の子は皆既にいわゆる熟年・中年の域に達しているので、右前段の心配はなく、被控訴人は二男である亡K男の妻及びその子らと共に生活し、近くにいる二女のMや三男Tにも支えられて平穏な毎日を過ごしており、特に資産はなく収入とてもとりたてていうほどのものはないが、経済面での不安はない。離婚により被控訴人の現在の生活状況に変化が生じ、或いは被控訴人が現に属している「宮本家」の墓所に葬られえなくなるというような事態は殆ど考えられないところである。

以上検討し来つたところを総合すれば、破綻して既に四〇年近くなる控訴人・被控訴人間の婚姻関係をこの際解消し、形骸化して久しい右婚姻関係にまつわる多くのことがらを整理した上で、これを機にそれぞれが心静かな余生を送りうるように取計うのが法の理念に合致するゆえんであるというべきである。

三よつて、控訴人の請求を棄却した原判決を取消して控訴人と被控訴人とを離婚することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法九六条、八九条に従い主文のとおり判決する。

(輪湖公寛 小林啓二 木原幹郎)

《参考・第一審判決理由》

一 〈証拠〉によれば、次の事実を認定することができる。

1 原告と被告は、原告の父と被告の母が兄弟の関係にあるいとこどうしで、親が結婚を決め、足入れと称する同居生活を経たのち、結婚式をあげ、大正一五年二月一〇日婚姻届をした。原告は明治四一年七月一九日生れ、被告は明治四一年二月一五日生れであり、いずれも当時一八歳であつた。原告と被告は、三男三女をもうけたが、長女は幼児期に、長男は一八歳になつた昭和二二年一二月に、二男K男は交通事故により昭和五二年九月に、それぞれ死亡した。二女Mは昭和一〇年生れ、三女N子は昭和一六年生れ、三男Tは昭和一八年生れである。

2 結婚当時、原告の実家には、田畑一町数反歩、山林約三町歩があり、原告、被告及び原告の両親が農業に従事し、同人ら及び原告の弟らが同居していた。

3 原告は農業を手伝うかたわら、結婚直後の大正一五年から昭和三年まで地元の青年学校に在籍し、昭和四年六月から昭和五年一一月まで現役兵として応召し、昭和七年六月二六日から同年七月二〇日までの間、教育召集を受けた。この教育召集を受けたとき、満洲の警察官の採用試験を受験し合格したが、両親から反対され、警察官にはなれなかつた。そこで、原告は、本籍地において、三年間ほど青年学校の指導員をしていたが、昭和一二年一〇月支那事変による召集をうけて中国に行き、昭和一五年五月復員した。そして、原告は、鉄工所を経営する目的で、同年一一月、単身、中国の上海市に赴いた。

4 このときまで、原、被告間の夫婦関係に不和は生じておらず、次々と子女をもうけた。原告のいとこであつた被告は、子供のころから、原告方に出入りして気心がわかつており、原告の両親など家族との折り合いも悪くなかつた。

5 被告は、昭和一六年六月、三女N子を出産したが、同年九月か一〇月ころ、子供二人を原告の両親に預け、他の二人の子供を伴い原告のあとを追つて、上海市に赴いた。当時、原告は、自己の経営する工場に寝泊りすることが多く、被告と二人の子供は、工場の外に家を借りて住んでいたが、原告と被告の間には、性的交渉もあり、昭和一八年二月、三男Tが出生した。なお、原告の工場には、現在原告と一緒に暮している訴外丙橋タカエが勤めていて、工場にいる間の原告の身の廻りの世話をしていた。

6 昭和一八年五月、原告の父が死亡した際、原告はとりあえず一人で帰郷し、相続問題などを処理した。同年七月、被告が遅れて戻つてきたが、同年八月、原告は、入れ違いに、再び上海市に行つた。原告の母が残つていたこと、子供らの面倒を見なくてはならないこと、戦争が激しくなつていて渡航証明を入手できなかつたことなどの理由で、被告は、そのまま、原告の実家にとどまることになつた。

7 原告は、昭和二〇年四月、現地召集を受け、同年八月敗戦を中国で迎え、昭和二一年五月帰国したが、右現地召集を受けるころまでには、訴外丙橋タカエと男女関係をもつに至つた。原告は、帰国して一年間ほど、実家にとどまり、おりからの農地解放にあたつて、小作に出していた農地を確保するように努めたが、昭和二二年夏か秋ころ、横須賀市に行き、魚網を造る会社の設立に奔走し、昭和二三年一月一日○○○工業株式会社を発足させた。そのころから、原告は、同社の社宅に訴外丙橋タカエと同居するようになつた。原告は、昭和二二年一二月、長男が死亡した際、同女を伴つて、帰省した。原告は、中国から引揚げてきたころから、被告との離婚を考え、親族に相談したり、被告に離婚話を持ちかけたりしたが、親族の十分な賛成を得られず、また、被告にも離婚を拒否された。右の長男死亡の帰省の際に申し出た離婚話を断わられてから、三〇年間ほどは、原告は、被告に対し、離婚に関して何らの働きかけもしていない。

8 被告は、原告が横須賀市に別居した後も、原告の実家に住み、子供を育てあげて結婚させ、二男K男が妻を迎えたのちは同人ら夫婦と生活を続け、農業に従事し、家の墓守りや神社の付合い等をしてきた。なお、原告の母は、昭和二四年ころまで被告と同居し、その後横須賀市の原告の弟方に身を寄せ、昭和二九年に原告と同居するようになり、昭和三〇年一二月死亡した。また原告の二男K男は、原告の実家の跡を継いで、昭和五〇年には、田畑、山林、家屋敷の大部分を原告から譲り受け、昭和五二年九月交通事故により死亡したが、その後も、被告は、右K男の妻やその子供らと暮し、経済的に困窮することなく平穏に過している。

9 原告は、昭和四三年一月前記会社を閉鎖するまで横須賀市に住み、同年五月から○○自動車整備学校舎監をし、昭和四六年一一月から○○自動車株式会社の寮の管理人として現住所に住み、引き続き訴外丙橋タカエと一緒に暮しているものであるが、同女との間には子供はいない。

10 原告は、二男K男の死亡後に、厚生年金及び軍人恩給の受給の権利を訴外丙橋タカエに残したいと考えて、被告に離婚を求めたが、前記長男死亡の帰省の際以降右離婚を求めるまでの三〇年くらいの間、原告は夫婦関係の調整ないし整備のために積極的な努力をしなかつた。原告は、三〇年前に訴外丙橋タカエの父に、二重の結婚状態をすみやかに解消する約束をしたのでこれを果たしたいとし、また、同女のために年金等の受給の権利を確保したいとして、現在も強く離婚を希望している。また、原告は、二男K男が死亡する少し前ころ同人が金一五〇万円を他から借金するにあたつて、当時原告名義になつていた土地を担保に利用することを承諾し、更に同人の死亡後にその妻に金五〇万円を送金したが、それ以外には、前記別居後、生活費や子供の養育費等の経済的援助を一切しなかつた。なお、原告には、現在、訴外Hと共有している山林が少しあるだけで、離婚に伴う財産給付をなす資力を持ち合わせていない。被告にもこれといつた資産はない。

11 被告は、原告が横須賀市に別居したのち、自己の下に帰つてきてくれるようなことがあればうれしいとの期待はもつていたものの、実際は無理であろうと考えてあきらめの気持を抱いたまま、調停の申立てをするなどの自分からの働きかけはしなかつたが、現在においても、離婚は望まず、自己の下に原告が戻つてくればこれを受け入れてもよいという気持が全くないとはいえないようであるし、それが無理なら、せめて墓だけでも一緒にしたいという様子がうかがえる。

以上の事実を認定することができ〈る。〉

二 右認定事実によれば、原、被告間の婚姻関係は、遅くとも昭和二三年一月一日までには破綻しており、以後三五年間にわたりその状態が継続していて、現在ではもはや回復不能であること、その破綻の原因は、原告が訴外丙橋タカエと同居するようになりそれが現在まで続いているためで、一方、被告にはこれといつた落度はなく、破綻の責任は専ら原告にあることを認定することができる。

ところで、有責配偶者からの離婚請求については、別居が相当期間にわたつていても、離婚によつて子の福祉が害されるおそれがあつたり、また、相手方配偶者が経済的な苦境に立つことが予想されるときには、婚姻関係の破綻の事実だけをもつて、離婚を認めるのは、相当でない。しかしながら、右のようなおそれがなく、破綻した婚姻関係が、相手方配偶者の反感ないし意地だけで継続させられることになり、その継続が当事者には何らの実益をもたらさないと認められる場合には、むしろ婚姻関係の破綻の現状を直視して、有責配偶者からの離婚請求を許してよいように思われる。そこで、本件について検討するに、原、被告間の婚姻関係はすでに三五年間の長きにわたつて破綻状態が続いているけれども、被告において今なお、原告が自己の下に帰つて来ることを望む淡い期待を有していることがうかがえないではないこと、被告は、現在、亡二男K男の妻及びその子らと一緒に同人らの善意によつて経済的にも困らない平穏な暮しを営んでいるが、被告固有の財産は何もなく、同居人の善意を除外したその生活基盤は必ずしも安定しておらず、原告の財産状態に照らすと、離婚に際しての財産給付は十分なものが望めず、前記年金等の受給の資格は被告にとつても大切なものであること、別居が継続する間、原告から被告に対する経済的な援助は全くなく、破綻した婚姻生活の調停ないし整理に原告における真剣な努力の跡はうかがえないことなどの事情が認められるのであつて、本件においては、有責配偶者である原告からの離婚請求を認めるには、いまだ十分でないといわざるを得ない。

三 よって、原告の本訴請求は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

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